2021-05-18 第204回国会 参議院 環境委員会 第9号
私、ちょっと前までは大学で教員生活を送っておりました。もちろん、大学ですから私も若い人たちにそういうことをいろいろ語りかけてきました。でも、なかなか成果が上がらない。やっぱり日本の大学でしたのでなかなか発言しようとしない。一つ感じましたのは、大クラスの段階で各個人個人の発言を自由にさせるということ自体がもうなかなかしにくいんですね。
私、ちょっと前までは大学で教員生活を送っておりました。もちろん、大学ですから私も若い人たちにそういうことをいろいろ語りかけてきました。でも、なかなか成果が上がらない。やっぱり日本の大学でしたのでなかなか発言しようとしない。一つ感じましたのは、大クラスの段階で各個人個人の発言を自由にさせるということ自体がもうなかなかしにくいんですね。
教員生活二十年、都内の小学校に勤める先生は、この十年間で教員の多忙化が深刻化したと証言します。理科の授業でプラネタリウムなどへ校外学習する場合、十年前は週案を校長に提出し、校外学習の行き先、日時、経路などを報告するだけで済みました。
五年間の教員生活で、典子さんは中学、高校の全学年で教鞭をとられ、教師として充実した日々を送られる一方、教育の現場を通じて、教育に今何が必要なのか、何に取り組むべきなのか、多くの課題を感じ取られました。
文科省からあのような現場を思う文書が出たというのは、私のこれまでの、教員生活も含めて、議員になってからも含めて、あのような文書が今まで出たことはなかったというふうに感じておりますので、そういう意味では、やっとこの多忙化に向けて動き出してくれるんだなということが分かったということで、本当にまず感謝を申し上げたいというふうに思います。
それを見て、私も十年前の自分の教員生活を思い出しました。余分なことを申し上げました。 私は、教員生活を三十八年間送り、最後の年には名古屋市の校長会会長、それから退職後は名古屋市の教育委員並びに教育委員長をさせていただきました。これらの経験を踏まえまして、教育委員会制度改革案についての所感を述べさせていただきたいと思っております。 名古屋は人口二百二十七万人。
ただ、この制度の、何といいますか、御説明ということで申し上げると、それはまさに教員免許を持たずして教員にはなれないわけですから、そこで教員生活を終わるということでございます。
一九七五年四月から二〇〇五年三月まで、三十年間の臨時教員生活は、辞令百十四枚にも及んでいる。その間赴任した学校は、小学校十四校、中学校四校、高校四校、特殊学校四校であり、その他に事務員や寄宿舎指導員、予備校講師も勤めてきた。そのうち、在宅、つまり失業期間は千百八十六日、夏休みと任期切れが重なったときもあった。
こんなことは私の教員生活始まって以来の出来事でございますが、原因は共通しておりまして、発達障害の子どもに対応できなかったという問題、それから理不尽なことをわっと言ってくる親に対応できなかったというこの二点が共通しておりました。 かつて、私は「逝きし世の面影」を読んでいただきたいということを申し上げましたが、なぜ江戸時代は日本の子どもが世界一幸せで、世界一礼儀正しかったか。
そういう中で、先ほど私、一馬力と申し上げましたが、本当に安給料の教員生活をしながら、女房は何をしておったかといいますと、子供が学校から帰れば、お帰りとかいう、あれですね。それと、すぐ近くに小学校がありまして、小学校で共稼ぎをしているような教員がいたんですが、福間さんは子育てが上手だと、どうか知りませんけれども、うちへ預けるんです。女房がその子守をしてやっていました。
私は、基礎学力と人間がどうしても、私も教員もやっておりましたが、身に付けてほしいのが、感性とか感動だとかそういう部分を何とか子供たちに身に付かせてやりたいと、そんな思いで教員生活をやってまいりました。ちょうどこの辻井さんのお母さんが本人に、リンゴは赤いよ、バナナは黄色だよと。そうしたら、この優勝した辻井さんが、今日の風は何の色と言って聞いたそうです。
つまり、十年間教員生活を続けてきて、ここでこれまでの教育実践を振り返り、さらに自分がこれから教員としてこだわり続けていく核になる、そういうものを設定するための機会として十年研修をとらえたらどうかという趣旨であります。
本年三月三十一日をもちまして三十七年間の教員生活を終わりました。その間、先輩の皆様、保護者の皆様、子供たちからたくさんのことを学ぶことができました。それぞれの個性のある子供とのかかわりを通し、自身を深め、見る目を大きく広げることができました。また、自分が変わることにより、更に子供との良い関係が築けたと思います。
ただ、やはり採用のときに持っていた教職に対する情熱というものを持続をし、その後経験を積みながら教員生活を送るためには、こういった採用のみならず、その後の研修あるいは先生方に対するいろいろなカウンセリングなどの支援の体制の充実ということも併せて図っていくということが必要でないかなというふうに思うわけでございます。
一方、免許更新制に基づきます更新講習は、国立、公立、私立すべての教員に基礎的な資質能力を共通的に身に付けさせる、そういう制度として構想されているわけでございまして、教員として必要な最新の知識や技能というものを学んでいただいて、言わばその知識、技能を新たにまた身に付けていただいてそれからの教員生活を送っていただくという、そういう制度でございます。
今回、なぜ川崎から来たのかという話もあるのですが、私自身、約十年弱、この山梨の地で公立私立にわたって教員生活を過ごさせていただきました。
前任の伝統進学校でも様々な改革を経験してまいりましたけれども、現在の多部制単位制高校は、再チャレンジの意味を込めた定時制高校の抜本的な改革として大阪府によってつくられた学校で、私の教員生活の歴史そのものが一連の教育改革の現場を象徴しているものと言えます。
私が常々思ってきたことは、教育の目的は子供の幸せにある、この一点を外さないでやってきたのが私の三十八年間の教員生活だったと思います。学校の主人公は子供である、子供が将来幸福な生活を送るために学校があるのであって、学校は、教育は社会のためにあるのではない、教育のために社会がなくてはいけない、こういう理論を持ってやってまいりました。
先生は、初めの教員生活を盲学校でスタートされて、弱視の方々を普通学級で教育するということをされた御経験の御披露がございました。私どものこの十三条では、いろいろな案が出たのでありますが、私自身が発言をいたしまして、「共に学ぶ機会の確保に配慮されつつ自立や社会参加が促進され、」こういう文言をうたっております。これについてどのようにお考えになるかということ。
そういった勤務あるいは母校での教員生活、僻地医療等を伝えるというふうな中身を通じて、僻地医療ということを皆さんに知っていただきたく、きょうのお話を進めてまいりたいと思います。
しかし、この日本とそして世界の平和を願うそういう気持ちは、これまでの教員生活の中でも子供たちとともに平和を語り、あるいは人権を語り、そういう教育をやってまいりましたので、その気持ちはだれにも負けない、大切に持ってきているというふうに思っております。 私は、昨年の四月に、民主党女性議員アフガニスタン訪問団の一員としてアフガニスタンとパキスタンのペシャワールを中心に訪問してまいりました。
今回の十年研修というものはしっかりした自信を持ってもらうために行うところでございまして、それは、教育についての実力を備えた、そして心情においても、生徒指導においても、十分期待される職務を達成できる、そういう資質を十分に持っていただくために研修するわけでございまして、まさにその研修以後の教員生活において、教員のあり方について、むしろ鼓舞をし援助する、そのための研修であるというふうにもとれるわけでございまして
あるいは、これまで例えばTTの加配教員、生活指導の加配教員、あるいは土曜日の授業まで平日に繰り入れてそして少人数学級をやってくれと、こう言うんですが、先生はまたまたゆとりをなくしてしまう。もちろん授業時間を減らす方向に使ってもらっては困りますけれども、そういうことで大変、大変といいますか難しいんではないかという感想を持っております。 時間もあれですので、もう答弁は結構でございます。